平成6年の歴史館開館に合わせて建築された展示棟では、
・名主としての仕事に関わるもの
・手作業で醤油造りを行っていた時代の道具や商標(手印)、広告品など
・醤油樽と樽造りの道具。樽造り映像(2000年収録)
・明治の一時期おこなっていた茶畑にまつわるもの
など、高梨家に伝わる文物を展示しています。
※内容は不定期に変更される場合がございます。
※展示スペースの都合上、企画展会期中はご覧いただけません。(そのため「常設展」ではなく「通常展」と呼称しています)

名主なぬしとして village headman

“名主としての髙梨家”

髙梨家には、村の行政にまつわる「文書もんじょ類(古文書こもんじょ)」や「むら絵図えず」が多数伝来しています。
展示棟の外にも、幕府からの通達を村人に伝えるための「高札場こうさつば跡」や、飢饉に備えて籾などを貯蔵していた「籾蔵もみぐら」、天明・天保の飢饉に際し代々の当主が困民を救済したことを認めた「顕彰碑《高梨氏たかなしし救菑記きゅうしき》」、嘉永3年の御鹿狩りの際に幕府から命ぜられて設営した御船橋おふなばしの「虎綱とらづな」など、名主としての仕事ぶりを伝える史資料が点在しています。

醤油しょうゆ造家ぞうかとして soy sauce brewery

寛文元年(1661)、19代主が始めたと言われる醤油醸造。製法のルーツは定かではありませんが、江戸川舟運を通じて江戸という大消費地を背景として高梨家の醤油業は発展します。
25代主の時代、文政12年(1829)には幕府御用ごよう醤油となります。天保11年(1840)の見立て番付『関東醤油番付かんとうしょうゆばんづけ』では東大関に位置し、また、トップブランドであった上十ジョージューしるしが元治元年(1864)には「最上醤油さいじょうしょうゆ」と認められ価格据え置きでの販売が許可されるなど、髙梨家は名実ともに関東を代表する醤油醸造家でありました。
明治になり移り変わる時代に対応すべく、大正初期に縁戚関係にあった野田町の茂木家や流山の堀切家とともに家業から企業へと転換するまでの、いわば、機械化前の手作業で醤油を造っていた時代の道具を主に展示しています。
また、高梨家に残された古文書から抽出した数百種に及ぶ商標(手印てじるし)年表からは、高梨家がどのように商売を展開していたかの一面を知ることが出来ます。

“醤油醸造家としての髙梨家”

醤油樽しょうゆだるづくり making soy sauce barrels

“醤油樽づくり”

醸造した醤油を保存・運搬するために欠かせなかった醤油樽。
江戸〜明治期には明樽あきだるの利用システム(リサイクル)も成立しており、江戸で回収した明樽を野田で修理し、大量生産・大量販売を支えました。
個人醸造時代の髙梨家の屋敷絵図からは、この場所でも樽屋が作業していたことが伺えます。
大正〜昭和期の野田の製樽業は、醤油生産の高まりとともに、一説には屋号にして200軒、1000人近くの職人が居たと言われますが、第二次世界大戦後は次第に瓶などの容器に代替されていき、現在では現役の職人は居ません。
このコーナーでは、製樽道具類のほか、平成12年(2000)ごろ撮影した映像で、野田の樽作り工程を見ることが出来ます。

茶づくり tea production

明治に入って茶の栽培が可能となり、髙梨家は茶畑を作ります。実際に商売になるほどには至らなかったようですが、茶壷や茶籠などが残されています。

“髙梨家の茶づくり”