平成30年春季企画展『御船橋』

日時:
2018年3月1日 – 2018年7月29日 終日
2018-03-01T00:00:00+09:00
2018-07-30T00:00:00+09:00
場所:
上花輪歴史館 展示棟
千葉県野田市上花輪507

近世、幕府により街道とともに河川も整備され、舟運 は流通を担ってきました。『富士見十三州與地全図』( 天保十三年 (1842)) を見ると、街道と河川が血管のように 張り巡らされていることがわかります。 同時に、河川は境界でもあり、関所が設けられ、「入り鉄砲と出女」という言葉に象徴されるように、人や物資 の流れが管理されました。 江戸の北東、水戸街道が江戸川を渡る地点が金町と 対岸の松戸であり、金町松戸関所は江戸防衛の重要拠点として江戸初期から定められていた関所でした。川幅約 七十間 (130m)、二艘の渡し船が常備され、通常明け六つから暮れ六つまで開門された関所は、通行手形を 持った者のみが通行できました。 では、大量の人員物資を渡河させたい場合は、どのようにしていたのでしょうか。その解が、船橋です。 大量の人員物資を渡河させることが出来るのは ( 渡河したいという希望を通すことが計画的に出来るのは ) 将軍 のみなので、御をつけて「御船橋」と呼んでいます。
「御船橋」は、日光御社参や小金原牧での御鹿狩りの 際に、栗橋中田関 ( 利根川 ) や松戸金町関 ( 江戸川 ) に 掛けられた仮橋です。川の流れに対して垂直に船を多数 並べて固定し、その上に、材木・板・簀子・ねこだ( 大型の筵 )・砂などを幾層にも重ね、将軍や供の大名 旗本を始め、多くの人馬が通れるようにしました。 徳川家康の鷹狩り好きは知られていますが、将軍綱吉以降廃絶されていた狩猟を、享保二年 (1717) より将軍 吉宗が再興させます。 勢子も動員される大掛かりな狩猟は、将軍の権威を 示すとともに軍事調練の役割を担いました。
嘉永二年 (1849) の小金原御鹿狩では、二万三千人余りの武士団 と、武蔵・上総など四カ国から獲物を追い込むための 勢子人足六万人余の農民が動員されました。 将軍を筆頭とする武士団を、江戸から小金原 ( 松戸市 ) へ渡す為に、金町ー松戸間に、御船橋の架設が必要と なり、髙梨家は、豪農・石川民部家 ( 現松伏 町 ) と共に その工事を請け負います。 鎖と綱で繋いだ二十一艘の大ひらた船を「虎杭」と 言われる太い杭に固定し、その上に、桁・敷丸太・ 敷萓・ねこだ・土砂を敷いた長さ七十三間 ( 約 131m)・ 幅三間 ( 約 5.5m) に及ぶ御船橋の架設は、前年四月の 用命から およそ 11 ヶ月に渡る大事業でした。 この企画展では、嘉永工事中に土中より発見された 享保の古杭や、寛政七年の勢子動員に関する史資料と 合わせ、嘉永二年の御船橋工事の史料を紹介いたします。


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